1958年の国鉄スワローズ(1958ねんのこくてつスワローズ)では、1958年の国鉄スワローズの動向をまとめる。

この年の国鉄スワローズは、宇野光雄監督の3年目のシーズンである。

概要

宇野監督3年目のチームは開幕戦で前年優勝の巨人と対戦。このカードで巨人のルーキー・長嶋茂雄がデビューするのを受け、エースの金田正一は「若造になめられてたまるか」と対抗心をあらわにし、その長嶋に対して金田は4打席4三振を奪い巨人ファンからも「国鉄は金田のためにある」と言わしめるほどであった。チームは6月まで首位の巨人に食らいつき、7月までは12ゲーム差の3位で中日とAクラスを争い球団初の3位は秒読みと言われた。しかし、8月に入るとチームの勢いは急降下。9月以降は広島にゲーム差を詰められたが、辛うじて4位を死守した。結局チームは優勝の巨人に13勝13敗と健闘するも17.5ゲームを離され、8月までAクラスを争った中日にも8勝18敗と負け越し大きく引き離された。投手陣は金田がこの年も絶好調で31勝で最多勝を、1.30で最優秀防御率、311奪三振で最多奪三振をそれぞれ獲得、特に勝利数に至っては、「開幕71日」「チーム試合数51試合」での6月13日に史上最速の20勝を達成、「この分なら51勝も」と思われたが、金田夏の持病「肘の痛み」のためにペースダウンしてしまう有様だった、その一方で打線の援護に乏しく、チーム打率.223はリーグ4位、チーム防御率も3.10とリーグ最下位で、最終的に9年連続のBクラスでシーズンを終えた。

チーム成績

レギュラーシーズン

オールスターゲーム1958

できごと

  • 4月5日 - セ・リーグ開幕。国鉄は後楽園球場で巨人と対戦、開幕投手・金田正一は巨人ルーキー長嶋茂雄を4打席4三振にきって取る。
  • 5月4日 - 大阪7回戦(阪神甲子園球場)6回裏、一塁走者の飯田徳治は、佐藤孝夫の中前打で二塁を回った際、右足アキレス腱を痛めて退場、直ちに大阪大学医学部附属病院に運ばれて精密検査を受けた結果、「右足アキレス腱断裂」で全治2ヶ月と判明、南海時代、1948年9月12日の金星戦から始まった連続試合出場が1246試合で止まった。
  • 6月13日 - 金田正一、巨人戦で完投勝利、史上最速の「開幕70試合」「チーム試合数51試合」での20勝到達となる。

選手・スタッフ

表彰選手

出典


1965年 国鉄スワローズ【選手名鑑】 YouTube

1950年 国鉄スワローズ 選手名鑑 YouTube

1955年 国鉄スワローズ「選手名鑑」 YouTube

【過去行きました】1958年国鉄スワローズ19 YouTube

1962年 国鉄スワローズ 選手名鑑 YouTube